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2008年5月18日

『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』

WALD9にて鑑賞。

映画館に行く前は宣伝を鵜呑みにして「お気楽チャランポラン議員が一念発起、がんばって歴史を変える!」みたいな感動娯楽映画を期待していたのだが、実際観るとそういう映画としては楽しめない。確かに主人公チャーリー・ウィルソン議員は努力の末、地元勢力に訓練と武器を与えてアフガニスタンからソ連軍を追い出す、という偉業を成し遂げる。しかし映画の最後のあたりではその数年後アフガニスタンで実権を握ることになるタリバンの影が示唆されているし、アメリカはソ連軍が出て行った後のアフガニスタンを安定させるための有効な手をなにも打たなかった、ということが描かれていてなんともビターな感じだ。ソ連軍を撃退するために訓練されたアフガニスタンの地元勢力がアルカイダの起源である、というよく知られた説も知識としてあるし。「塞翁が馬」の故事を引用している点で、映画もそのことに自覚的だといえる。

それからウィルソン議員も酒好き・女好きという点は確かにその通り描かれているけど、最初の方でクリスマスに消防署前に設置する聖母子像のことで陳情に来た男のあしらい方は見事だし、アフガニスタン支援のための予算獲得とかイスラエルやエジプトなどの協力のとりつけの過程で一貫した優れた政治手腕を見せ、ダメ議員というのとはほど遠い。ことが淡々とスムーズに進みすぎてこの映画を娯楽映画として観にくい一要因になっている。

それでは歴史の中からひとつながりの出来事を切り出してきて、その中の人間模様も交えながら、ひたすら硬派にできるかぎり客観的視点から描く、という例えばスピルバーグの『ミュンヘン』のような映画なのか、というとそういう映画にもなっていない。『ミュンヘン』になるためには、ソ連軍に対する一方的な極悪な描き方が邪魔なのだ。「ソ連軍のヘリ数機が飛来し、市民を虐殺。クルーは他愛もない雑談をしている。民兵が供与されたスティンガー・ミサイルで1機を撃墜。残りのヘリは全く予想だにしていなかった事態に大混乱に陥り、順次撃墜される。」というくだりは、これが娯楽映画だったなら最高にカタルシスの得られる部分なんだが。

80年代の描き方としても中途半端な感じで、当時のヒット曲などたくさん使うと面白かったと思うのだが、ピンと来たのはデビッド・ボウイの『レッツ・ダンス』だけだった。女の子のヘアとかファッションとかそっち方面にあかるい人が見れば、結構ディテールにこだわっていたりして面白いのかもしれないけど、私にはいまひとつ印象に残らなかった。

それでは『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』はダメ映画かというと、そういうわけでもない。ウィルソン議員と協力して計画を推し進めるCIAエージェント、ガストの役を務めるフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が素晴らしい。ガストが初めてウィルソンのオフィスを訪れ、部屋を出たり入ったりするところとか、ウィルソン、ガスト、モサドのエージェントの3人で計画を練るところとかいいシーンがいくつもある。部分部分をみるとこの映画には第一級のシーンが多いのだ。40才になっても素晴らしいジュリア・ロバーツの水着姿も一見の価値あり。

2007年11月27日

『ブレードランナー ファイナル・カット』

ちょっと時間調整の必要があったので、「そ~いえばやってたよな」というノリで新宿三丁目のバルト9に入って観て来たんだけど、いや~良かった!単に懐かしい映画を久しぶりに劇場で観れた、という以上の価値があった。目を見張るようなピリッとした美しい映像にデジタルリマスターは単なる宣伝文句じゃないなと実感。雨の降り続ける未来都市にそびえるタイレル社の建物のディティールとか、(再編集で一応新作扱いとは言え)昔の名画を観ているということを忘れてしまうほどだった。音響も素晴らしかった。

(前回観てから何年も経っているのでかなりあやふやな記憶に基づいて)以前の『ブレードランナー』との違いで気づいた点を挙げると、所々挿入されてたデッカードの独白が(たぶん)全て削除。レプリカントの滞在していたホテルに残されていた写真をデッカードが調べる下りの直前にユニコーンのカットが挿入。ラストがレイチェルとデッカードがアパートを出てエレベーター・ホールの床に落ちた折り紙を見つけるところでガフの台詞がかぶって唐突にエンド・ロール(前は確かこの後に郊外のシーンがあったような)。

久しぶりに観ていろいろ思ったこととか、検索してて気が付いた事とかあるけど(たぶん)また書きます。

とりあえずは、バルト9からなにももらってませんが、「劇場で見られる最後のチャンスをお見逃し無く」!

2007年9月 5日

『レミーのおいしいレストラン』

remy.jpg
ピクサーの新作アニメ映画。監督は『アイアン・ジャイアント』『ミスター・インクレディブル』のブラッド・バードだ。先日、新宿のバルト9で観てきたんだけど、笑いあり、ハラハラドキドキあり、そして最後にちょっとホロっとさせる、良くできたファミリー娯楽映画だった。

はじまりはパリの郊外の田園地帯。ずば抜けた味覚・嗅覚を持ったネズミのレミーはいつか料理人になりたいという夢を持っている。彼のヒーローは今は亡き名シェフのグストー。しかし、ネズミの群のボスである父親はじめまわりのネズミたちはそんな彼の夢を理解してくれるはずもなく、レミーは嗅覚を活かして食料の毒見役をしながら日々を過ごしていた。しかし、ある日アクシデントで群れから離ればなれになり、パリの街に迷い込んだ彼は、彼自身の空想が生んだグストーの亡霊に導かれ、夢を実現するチャンスに出会う。

・・・と物語の発端は『スター・ウォーズ エピソード4』型の王道冒険映画そのもの。レミー=ルーク・スカイウォーカー、レミーの父親=ルークの養父、グストー=オビワン・ケノービだよね。ダース・ベイダーはいるの~?・・・もちろんいますとも。料理評論家のアントン・イーゴがダース・ベイダー!

ピクサーのCGアニメのテクノロジーはさらに進歩していて、特に実写と見紛うほどのパリの街を背景に繰り広げられる追跡シーンは素晴らしかった。

かつて築いた名声で客を集める今のレストラン・グストーをイーゴが「観光向け」と斬って捨てたり、現シェフがグストー・ブランドを冠した冷凍食品で金儲けを計画してたり、スパイスの効いたディティールも侮れない。特にこれがディズニーの映画であることを考えると思わずニヤリである。

途中展開のあっけなさ過ぎるところがあったりとか、無気力なリングイニとツンデレのコレットのロマンスがちょっと取ってつけた感じだったりとか、まあ難点もあるけど、全体的には佳作である。ただ大傑作の『ミスター・インクレディブル』と比べちゃうと作品の深度という点ではかなり落ちるかな。気軽に楽しみたい映画だ。

2007年3月10日

戦争映画って?

戦争映画、歴代ベスト7


 そこで、私なりの「戦争映画ベスト10」を作ってみることにした。最初の7つはすんなりと浮かんだのだが、残りの3つにふさわしいものが思いつかない。そこで、無理にベスト10にすることもなかろうと、そのまま発表(公開順)。どれも思いっきりオススメである。

* 地獄の黙示録 (1979)
* シンドラーのリスト (1993)
* ブレイブハート (1995)
* ライフ・イズ・ビューティフル (1997)
* 戦場のピアニスト (2002)
* ホテル・ルワンダ (2004)
* 硫黄島からの手紙 (2006)


(未見なので、なんともいいいようのない『ホテル・ルワンダ』を除いて)いずれもある水準以上の良い映画であることに異論はないのだが、「戦争映画ベスト〜」と言われると微妙にひっかかるところのあるリストである。というのは、このなかに「これは戦争映画?」という作品が含まれてるから。

○○映画というジャンル分け行為そのものが映画に対するある種の認識あるいはある種の態度を前提としているという話はとりあえず脇に置いておくとして、また「戦争映画」というジャンルについて万人の認める明確な定義というものはたぶん存在しないだろうとも思いつつ、自分的には戦争映画といいうものは「近現代の戦争(=国家ぐるみの戦闘)を主たる題材とした映画」と定義付けられるのではないかと考えている。「国家ぐるみの戦闘」というからにはやくざ組織間の抗争を題材とした映画は、いくらドンパチやろうが「戦争映画」とは呼ばない。また、近代より前の時代を舞台とした映画は「戦争映画」ではなく、「歴史を題材とした映画」または「歴史映画」と呼ぶべきではないだろうか?というのは、そのくらい時代を遡ると、戦争というものに対する人々の認識や生活の中での位置づけが現代と大きくかけ離れているだろうから。上記引用のリスト中にある『ブレイブハート』には大がかりな合戦のシーンがでてくるが、これを戦争映画として観たことはない。『キングダム・オブ・ヘブン』も戦争映画ではない。『ロード・オブ・ザ・リング』が戦争映画ではなくてファンタジー映画であるのも同様である。

背景として戦争やその時代が用いられてはいるが、戦争そのものが主たる主題とはなっていない映画も「戦争映画」とは呼びにくいのではないだろうか?この基準からいくと『シンドラーのリスト』や『ライフ・イズ・ビューティフル』はかなり微妙になってくる。特に『ライフ・イズ・ビューティフル』の前半分は戦争前のエピソードである。私の大好きな『イングリッシュ・ペイシェント』も戦争中のエピソードが過半を占めると思うが、戦争映画ではないだろう。

ちょっとググってみたらYahoo!知恵袋で面白いQ&Aを発見したのだけど、ヒロクさんが「これはどうなんだ?」として挙げている『戦場のピアニスト』『戦場のメリークリスマス』『ジャスティス』『ロング・エンゲージメント』
はいずれも私基準では戦争映画ではない。(forestsaregreenさん回答は映画のジャンル別けについて鋭い指摘を含んでいるのだけど)

ということで、Nakajimaさんのベスト7は「オススメ映画リスト」としては、Nakajimaさんの人柄もうかがえ、良いリストだと思うのだが、この中で「戦争映画」といえるのは、

* 地獄の黙示録 (1979)
* 硫黄島からの手紙 (2006)

この2つだけではないだろうか?(あ、繰返しますが『ルワンダ』は未見のため判断つきません)

・・と、ここまで書いたついでに、私家版オススメ戦争映画リストを・・・作ろうと思ったのだが、数揃えるのはやはりなかなか容易ではありません。しかし、『硫黄島からの手紙』は絶対に含めるべき名作だと思う。他に思いつくものとしては『ブラックホーク・ダウン』。それから戦争映画と言えばこれは外せない『史上最大の作戦』、『プライベート・ライアン』・・・

2006年2月12日

『THE 有頂天ホテル』

uchoten.jpg三谷幸喜監督・脚本『THE 有頂天ホテル』(公式サイト, Yahoo!ムービー)を観た。映画館はお台場のシネマ・メディアージュ。

何度も大笑いしながら観た。

架空のホテルを舞台に、従業員や宿泊客たちが絡みあうドラマだ。基本的にはドタバタ喜劇で、アヒルのダブダブとか顔を白塗りしたままホテル内を彷徨うハメになった総支配人(伊東四郎)とかのお笑いキャラが繰返し画面に出てきて笑いを誘う。そうこうしているうちに、各登場人物の過去なり状況なりが交錯してきて、心温まるラストへと向かう。

次々人手を渡っていく幸運のアイテムの人形とか、細かい仕掛けが心憎い。娼婦役の篠原涼子の変身も「うわっ」て感じ。ただ、最後の方のかなり重要なオチのひとつで、映画観てる最中はわかりづらいのがあって、「ん?こういうことなのかな?」と思って、後で調べてやっと確認できたのがあった。

俳優の使い方は、割とその俳優の一般的イメージに沿ったのが多かったけど、前記の篠原涼子とオダギリジョーは意外性があって面白かった。

この映画みたいに、限られた空間の中で繰りひろげられる群像劇のことを「グランド・ホテル形式」と呼ぶ。その名の通り、1932年の映画『グランド・ホテル』によって確立された形式だ。この作法に則った映画作品は数多く、例えば『タイタニック』もそのひとつに数えられるだろう。『THE 有頂天ホテル』では、劇中のセリフや設定で『グランド・ホテル』にオマージュを贈っている。西田敏行演じる演歌歌手はグレタ・ガルボのバレリーナをちょっと思い出させるところがあった。ただ『グランド・ホテル』のやや辛らつで悲劇的な語り口に対して、『THE 有頂天ホテル』のそれはひたすら陽性で、「やなヤツ」キャラもラスト付近でいいところを見せたりする。ほとんど悪役のいない映画だった。

2005年11月 2日

『シン・シティ』

sincity-.jpgもう先々週のことになるけど、品川プリンス・シネマで『シン・シティ』を観てきた。もうそろそろロードショー終了という間の悪い記事^^;

『デスペラード』のロバート・ロドリゲス監督(監督としては彼の他に原作者でもあるフランク・ミラーがクレジットされている。それからクエンティン・タランティーノがゲスト監督ということで、いくつかのシーンを担当したらしい。ロドリゲスは監督のほかに撮影、編集、その他にクレジットされている)、超豪華キャスト、トレーラーで見るスタイリッシュなモノクロ映像などに惹かれて気になっていたのだが、なかなか時間が取れず、公開からだいぶ経ってしまった。

『シン・シティ』は最高のアクション・ムービーだった。しかし、バイオレンス・シーンのあまりの凄惨さのために世間ではこの映画に対する評価がわかれているようだ。おれはグロいの基本的に苦手で、『ハンニバル』が怖くて観れないほどなんだけど、この映画は全然OKだった。ヒーローたちに殺される悪役たちに関しては、彼らが死に、それもとびきり惨い死に値することを納得させるトラック10台分の理由が前もって提供されるから。それにモノクロ映像によってグロさは耐えられる程度にコントロールされてるし。だから、おれは不快感ではなく爽快感を感じた。モノクロ映像であること以外にもこの映画のバイオレンス表現は巧みにコントロールされている。3人登場するヒーローたちのひとりでミッキー・ロークが演じるマーヴ(というか、後であれがミッキー・ロークだと知って驚いた)がイライジャ・ウッド演じる食人鬼(これも後でそれ以上にびっくり)のアジトに潜入するシークェンスで、犬がマーヴに襲いかかるのだが、怪力男マーヴは犬を殴って撃退。犬は死なない(後で食人鬼を「処刑」するシーンで活躍する)。これ重要。犬が殺されるほど心の痛むシーンは無いからね。そもそもハリウッド映画では犬を虐待するのはタブーである。

バイオレンス表現云々にもうひとつ付け加えると、この映画はあえて「作り物らしさ」を極端に追及していると思う。一種の様式美を醸し出しているともいえる。なかなかあざとい映画だ。「真に受ける」よりも、作り物を作り物として楽しむのが正しい観方だろう。

ジェシカ・アルバ演じるナンシーはヒロインとしての存在感抜群。クライブ・オーウェンは『クローサー』のときとうってかわって、かっこいいのなんの。デヴォン・アオキの女忍者、長い手足を振り回して活躍しまくり。素敵。

2005年11月 1日

『ティム・バートンのコープスブライド』 [微妙にネタバレ]

『チャーリーとチョコレート工場』は何週間も興業ナンバー・ワンぶっちぎり状態だった。『私の頭の中の消しゴム』にその座を譲ったけど、依然3位。で、『コープスブライド』が2位に食い込んでいる。ティム・バートンの映画にこんなに客が入っていいのだろうか?(笑

corpsdog.jpg
その『コープスブライド』を品川プリンス・シネマで観た。
チケット買ったら1,000円だった。そうか、今日は安い日なんだ。ラッキー^^

この映画は保守的で陰鬱な雰囲気漂う19世紀のヨーロッパ(イギリス?)が舞台になってるんだけど、冒頭から英語のアクセントで成金と没落貴族を描き分けたり、芸が細かい。で、死者の世界へ行くと骸骨さんたちがジャズで踊っているいきなりアメリカン・エンターテイメント~!なノリだし。骸骨犬可愛いなぁ。

そんなこんなで割合淡々と映画を楽しんでいたら、ラストでやられた~!
目頭が熱くなりました(+o+)

これは『人魚姫』のティム・バートンによる変奏だね、うん。

公式サイトにロシア民話をベースにしたって書いてあるんだけど、これは殺された花嫁と誤って結婚してしまったっていう説話なんだろうな、きっと。ちょっと調べてみたい。ちなみに、あちこちに「19世紀ロシア民話をベースに・・・」と書かれてるんだが、19世紀に作られた民話って、それはちょっと・・・^^;;;

2005年10月13日

『ブコウスキー:オールドパンク』

12日夜、渋谷シネアミューズのレイト・ショーで観た。

映画が始まってしばらくすると、変な匂いが漂ってきた。屁の匂いと正露丸の匂いだ。断続的にではあるがずっと漂っていた。ヴァージン・シネマズ六本木では『チャーリーとチョコーレート工場』上映時に「効果臭」として劇場内にチョコレートの匂いが漂うらしいが、『ブコウスキー』の場合は屁と正露丸の匂いですか、そうですか、なるほど・・・て、そんな訳ねーだろ。なんだかとんでもない客が近くにいたようだ。目撃証言によると、そいつは通路越しに脚をなげだした酷い格好だったらしい。ブコウスキー気取りかよ、バーカ。

この映画を観るにあたって、多少予習しておこうということで、長編小説『パルプ』を読んだ。これはなかなか楽しめた。次に短編集『ありきたりの狂気の物語』を読んだ。最初のあたり、特に『狂った生き物』は面白かったのだが、読み進むにつれ、どの短編も泥酔、ゲロ、暴力、セックス(というよりセクハラ)の繰り返しで、次第にうんざりしてきた。おれは途中でその本を投げ出してしまった。

『ブコウスキー:オールドパンク』は作家ブコウスキーと交流のあった、彼を愛した人々が寄ってたかって彼を聖人に祭り上げようとするような映画だった。おれはちょっと違和感を感じながら観た。

ブコウスキー本人はまあ純粋な人物だったのかも知れないが、ブコウスキー的な人々というかブコウスキーにはまるタイプの人々には正直違和感を覚えるのだ。嫌悪感とさえ言ってもいいかもしれない。

典型的なのはアングロサクソン系のアウトサイダー意識の強い若者たちだ。彼らは権威に反発するふりをしながら、権威を構成するシステムから一歩も外に出ていない。自由人を気取って世界各地を放浪しながら、アングロサクソンの政治的・経済的・文化的ヘゲモニーの繭の中でヌクヌクとしている。英語が世界で最も通用する言語であることのメリットを最大限享受している訳だし。彼らは実のところたいていの場合は独善的で排他的で人種差別主義者だ。さらに最悪なことに、たいていOASISのファンだ。まったくロクでもない。

・・・ああ、屁と正露丸にはムカついたよ・・・

2005年9月17日

予習

数人のグループで『ブコウスキー:オールドパンク』(公式サイト)を観に行く事になりそうだ。作家チャールズ・ブコウスキーの事は何かで読んだ記憶があるんだが、作品を読んだ事は無い。そりゃまずいだろ、ということで予習のためにとりあえず一冊購入↓
パルプ

2005年9月14日

『チャーリーとチョコレート工場』

昨日、新宿松竹会館で観てきた。

この映画には大きな期待がかかっていた。というのは最近映画館に観に行った映画でハズレが続いて映画運下降気味だったからだ。

『チーム★アメリカ/ワールドポリス』(公式サイト)はとりあえず笑えたんだが、観た後なんだかひゅ~~と寒い風が吹く映画だった。シカゴ発 映画の精神分析: チーム★アメリカ/ワールドポリスに書かれている映画評は的を得ていると思う。

『マダガスカル』(公式サイト)は全体にヌルかった。ヌル過ぎ。子供向け映画に目くじら立てるなよと言われるかもしれないけど、いっしょに観に行った4歳の息子も寝てましたが(笑 ちなみに彼は『Mr.インクレディブル』の時は全篇刮目して見入ってたよ。

Charlie and the Chocolate Factoryということで、次外すと映画館に足を運ぶ意欲が削がれるよな~と思っていたところにこの『チャーリーとチョコレート工場』(公式サイト)である。これは外れないだろう。ティム・バートンにジョニー・デップだし・・・・ということで大きな期待である。あ、でも『PLANET OF THE APES/猿の惑星』の例もあるしな・・・やっぱ一抹の不安。

で、期待は外れなかった。ベースは教訓的な童話なんだけど全篇ティム・バートンの怪奇不思議テイストが満載である。ジョニー・デップ演じるウィリー・ウォンカの怪しげで危ういキャラクター最高。ジョニー・デップって個人的には『ショコラ』とか『ナインスゲート』でおじさん顔なイメージがあったんだが、実はこんな美形だったのかと発見。ウィットの効いたセリフもいい。それから主人公の少年チャーリー以外の「悪い子」たちとその親の徹底したステレオ・タイプぶりが笑えた。チョコレートばっかり食ってるドイツ人のデブガキ(やけに目が青い)が金のチケットを当ててテレビニュースに出てきて、父親はソーセージ屋ってなんじゃこれ。大爆笑。

ところで、映画中でウィリー・ウォンカが「チョコレートを食べると恋をしたような気分になるのです」と言ったのにゲーム小僧の少年が食ってかかっていたけど、「恋をしたような気分になる」のはあながちウソでも無いようだ。チョコレートには脳内物質のセロトニンやエンドロフィンの分泌を促す成分が含まれてるらしいので。軽い覚醒効果や集中力を高める効果もあって、おれも仕事中よくポリポリ食べてた。

2005年8月 5日

神話としての『スター・ウォーズ』

以前のエントリーで『スター・ウォーズ』についてさらりと書いた「王道を行く冒険物語」というのは、それを「神話」と読み替えればペトロ三木の『アタマのおかしいブログ』: Reminder #2: 「奥山貴宏」という神話の中でもう少し詳しく説明されていると思う。

確かに『スターウォーズ』にはキャンベルの言う 神話の要素がそのまま組み込まれてる。

モノすごくかいつまんで言うと…
①「英雄」が「召命」を受けて「冒険」に旅立ち…
②それは誰も挑んだ事のない「命がけの冒険」で…
③時に「英雄」は悲劇的な死を迎えたりもするが…
④それが英雄の帰属する社会に恩恵をもたらす

歴史の短いアメリカ合衆国で神話としての映画がたくさん作られているのは偶然じゃないかもね。

それから「キャンベルはギリシア神話や聖書、仏教は勿論アメリカ、インド、ポリネシアから日本の神話まで世界各地に残る神話は全て、共通する普遍的テーマを物語っているという」との事だけど、ここで言われてるような神話的ナラトロジーはいわゆる「熱い社会」へと離陸した民族には共通しているけど、「冷たい社会」では全く異なった型の神話が見られる、という話を聞きかじった事がある。前出のキャンベルの主張におけるアメリカっていうのはおそらくネイティブ・アメリカンの事だし、ポリネシアなんてのもはいってるから、それらの社会で「離陸」があったかどうかは見方がいろいろあって、その辺の捉え方によっては矛盾してしまうかもしれないけど。おれの聞きかじりが正しいとすれば神話と歴史の間には、にわとりが先か卵が先かはわからないけれど、なんらかの相関関係がありそう、ということになる。

2005年7月22日

『ミリオンダラー・ベイビー』続き(ネタバレ)

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公式サイト

すごくわかり易い映画なのだけど、この映画について語るのは難しいと思った。あらすじを書き出すとなんだか安っぽいメロドラマみたいだ(善玉・悪玉みたいなのも結構はっきりあるしね)。でもこの映画はそうしたものとは対極にあって、プロットを語ることはこの映画を語る事にはならない。人間と人間の絆(あるいはその破綻)、挑戦する事(あるいはしない事)、現実との戦い、宗教、運命、死(この映画の中では尊厳死、つまり選択としての死だった)・・・そうした(そのどれもが万人にとって大切な)諸々のこの映画がテーマとしているであろうことが、演技を含む絶妙なディテールによって重みを持って伝えられてくる。結局、物語は何を語るかでなくてどう語るかが重要だということがよくわかる映画だと思った。

話は変わるけど、最近映画運がいい。まあハズれなさそうなの選んでる訳だが。全部悲劇なんだけどね。

『ミリオンダラー・ベイビー』

もう封切からは随分経ってるけど、品川プリンス・シネマのレイト・ショーで『ミリオンダラー・ベイビー』を観に行った。

エンド・スクロールが始まっても誰も席を立たず、場内は静まり返って、ただテーマ曲だけが流れる・・・そんな映画だった。

プロットは至ってシンプルだけど、力強くて、いろんなものが織り込まれてたな。

また書きます。

2005年7月16日

『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』(ネタバレ)

anakin.jpg
15日(金)、ヴァージンシネマズ六本木に『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』を観に行った。

思えば最初のスター・ウォーズであるエピソード4が封切られたのはおれが中学生の時の事だった。少年の夢直撃の王道を行く冒険物語と当時としては驚異的なSFXに映画館の中で感じた震えるような興奮は今でも覚えている。その後エピソード5、エピソード6もリアルタイムに体験していった。映画を「リアルタイムに体験する」というのも考えてみれば妙な言い方だが、スター・ウォーズという一種お祭り的な映画シリーズに関しては的を得た表現かも。

16年のブランクの後、再びエピソード1からシリーズが再開された訳だが、前の二作は正直満足のいく出来ではなかった。技術の進歩を反映してSFX・VFXの水準は確かに素晴らしく高かった。ライト・セーバー・バトルも以前のエピソード4~6のそれを遥かに越える迫力のあるものだった。しかし、いかんせん全体として見るとエピソード1はお子様映画のようだったし、エピソード2はたらたらとどこかで見たようなシーンが続いて、まるでできの悪いRPGのようだった。

今回のエピソード3は前評判通り前2作と比べて見違えるような出来だった。単なるSFXアクション・シーンのショー・ケースではない、シリーズの最後を飾るに相応しい内容のある映画だと思う。確かにエピソード1~2の流れをエピソード4に繋げるためのご都合主義的な部分も散見される。突っ込もうと思えば突っ込みどころは満載。しかしこの映画に関してはそれは野暮というものだろう。パルパティーンとジェダイ騎士団の間で揺れ動くアナキンの描写だって芝居としてそれほど上等なものだとも思わない。でもいいのだ。この映画には物語があった。

アナキンの暗黒面への転向、共和制の崩壊、ジェダイの壊滅のながれには、スター・ウォーズ世界の歴史の転換点を感じて思わずこぶしを握りしめた。もはや以前の彼ではなくなったアナキンを前に絶望するパドメ、かつてのパダワンであるアナキンに対して意を決して戦いを挑むオビ=ワン・・・悲劇である。状況を悟り奮闘するヨーダ。そして映画中最大の感銘を受けたのは、オビ=ワンとの戦いに敗れて瀕死の重症を負った後でパルパティーンに救出され、エピソード4~6でお馴染みのダース・ベイダーの姿になって蘇ったアナキンが、パドメが死んだ事を聞かされて嘆き叫ぶシーンである。あの声で、あの姿で、悲痛に愛する女の名を叫ぶダース・ベイダー・・・これは想像していなかった。心を抉られた。

2005年7月12日

『ヒトラー ~最後の12日間~』

渋谷のシネマライズに『ヒトラー ~最後の12日間~』(日本公式サイト)を観に行った。

超オススメです。
でも重いです。ひたすら重い。

以下、ネタバレを含むが、まあ史実なので皆さん周知でしょう。

ヨーロッパの第二次大戦末期、ソ連軍がベルリンへと迫る中、ヒトラーやゲッペルスを初めとするナチス・ドイツの幹部たちやその家族は地下司令部に篭っていた。一方、外ではドイツ軍は殆ど壊滅状態であり、未だに第三帝国の正義を信じる少年や少女を含む一般市民たちが絶望的な防戦に身を挺する。地下司令部のヒトラーは錯乱状態で、無意味な命令を撒き散らし、市民の犠牲は一向に意に介さない。とっくに崩壊した権威にすがり付き、またそのために命を捨てる人々。ヒトラーの命令によって処刑のために寝ている途中で逮捕された将校は、下着姿で軍服を手に持って連行されて行き、道端で銃殺される間際に慌てて軍服を着、「ハイル・ヒトラー!」と叫びながら射殺される。子供に毒を飲ませて殺す母親(ゲッペルス婦人)。

そうした極限状態の諸々が迫真的に描かれている。独裁政治や個人崇拝の恐ろしさがその崩壊の瞬間においてとらえられている。さらに恐ろさを増しているのは、そうした渦中の人々(ヒトラーさえも含めて!)の普通の人としての側面にスポットライトをあてている事だ。狂気の独裁政治が遠いおとぎ話なんかではなく今もおれたちの隣に潜んでいるのかも、と考えさせられる。

2005年6月 1日

『ブラック・レイン』、松田優作、シンディ・シャーマン

blackrain.jpgリドリー・スコットの映画人としてのキャリアは特異である。彼は1979年の『エイリアン』(goo映画)、1982年の『ブレードランナー』(goo映画)という2つの不朽の名作をたて続けに世に送り出し、映画監督としての名声を一旦は確立した後、長い低迷時代に入ってしまい、微妙な作品を撮り続けた。しかし2000年の『ハンニバル』(goo映画)でいきなり復活(*)。同年の『グラディエーター』(goo映画)はアカデミー作品賞に輝いた。2001年の『ブラックホーク・ダウン』(goo映画)も冴えた傑作である(これがリドリー・スコットのこれまでの最高傑作かもしれないとさえ個人的には思っている)。そして今現在は『キングダム・オブ・ヘブン』(goo映画)が大ヒット上映中(これは近日中に観に行きたいと思っている)。

内田樹の研究室: 松田優作と『ひよこどん』

この記事の前半で取り上げられてる『ブラック・レイン』(goo映画)は変な言い方だけどリドリー・スコットの「低迷時代の代表作」である。日本が舞台だし松田優作や高倉健が出演してるから日本では話題になったけれど、よくある「奇妙な果実」系映画で終わっていて駄作である。しかしここで紹介されている松田優作の演技に対する加藤典洋の解釈はおもしろいと思った。まあリドリー・スコットの「公案」に応えてのことだったのかどうかは謎だが。

定型的なふるまいを微妙に過剰にすることによって、その定型を「ナチュラルなもの」として看過している人々の「紋切り型性」=イデオロギー的な被制性を逆照射してみせること。

これはおもしろい視点だ。これを意識的に武器として使いこなして成功した代表例は(映画から離れるが)シンディ・シャーマンの『アンタイトルド・フィルム・スチルズ』(MOMAのページ)だろう。この作品はどこかで見たような映画のワンシーンをシンディ・シャーマン自身が演じた「ニセ・スチル写真」の連作である。この作品の中でシンディ・シャーマンは映画に見られる紋切り型の女性像をやや過剰に自演することによってまさに女性像の「イデオロギー的な被制性」を「逆照射」することに成功した。

仮に、松田優作が『ブラック・レイン』において、シンディ・シャーマンがとったのと同等の戦法によって、何かを表現しようとしたとすると、それはなんだったのだろうか?ハリウッド映画が潜在的(いや顕在的?)に持つ異文化に対する傲慢さかな?だとすると『ブラック・レイン』はそうしたメタ・レベルの批評性が仕組まれた、『エレファント・マン』(goo映画)あたりと並ぶ傑作ということになるけど、残念ながら当時のリドリー・スコットにそんな意図は無く、松田優作のゲリラ活動に終わった(で不発)というのがおれのbet。


*)というのは一般的な世の中の評価に基づいて。実はこの映画、当時相当な話題作であり、しかも好きな監督の作品であるのも関わらず、おれは観てないのだ。なぜかというと、おれはグロがだめなんで食人鬼の話なんか怖くて観れないんですよ^^;; まわりのひとに聞くと、そんなでも無いって言うんで、そのうちDVDで観てみようと思ってます。

2005年5月24日

『クローサー』(その2、ネタバレまくり)

Closer_conp.jpg昨日に続いて、映画『クローサー』を観た感想。この映画は密度が高くて語るネタ満載である。映画館で一回観ただけなんで正直未消化な部分もあるんだけど。適当に思いついたことを書こう。

ナタリー・ポートマン演ずるアメリカ人の少女(歳若い女って意味で)がロンドンにやってきて、たまたまその場に居合わせた作家志望の新聞記者ダン(ジュード・ロウ)の目の前で交通事故に遭い、ダンは病院まで同行する(幸い少女の怪我は軽傷で済む)。少女はダンにアリスと名乗り、2人はいっしょに暮らし始める・・・これが物語の発端部分である。一方、物語の結末において少女はダンに別れを告げ、一人でニューヨークに戻る。空港のイミグレーションで少女のパスポートが画面上に曝され、少女の本名がジェーンであることが明かされる。ニューヨークの街を歩く少女を映しながら映画は幕を閉じる。

後のキャラクターはどちらかというとありがちな人物であるのに対して、アリス(と以後便宜的に呼ぶ)は4人のキャラクターの中でやや超越的な性格を与えられているようだ。他の3人の登場人物が教育水準の高さを伺わせ、一般的に言って社会的地位の高い職業に就いているのに対して、アリスの職業はストリッパーである。しかし、アンナの写真展で鋭い批評を展開するあたり、非凡な知性・感性の持ち主として描かれている。ダンにアンナとの関係を告げられ、ダンの部屋を飛び出したアリスがストリッパーとして働いていたクラブに、アンナに別れを告げられて半ば自暴自棄のラリーが偶然訪れる。2人の個室でのシーンはこの映画の中の圧巻のひとつである。ラリーに繰返し本名を問われてアリスは「ジェーン」と答え続けるが、ラリーは信じない(これは伏線となる)。ラリーに関係を迫られたアリスは「売春婦ではないから金で体は売らない」と確固たる行動の基準(「倫理」と呼んでもいいかもしれないけど)を表明する。(一方、すぐ後のシーンでラリーから離婚届へのサインと引き換えにセックスを要求されたアンナがこの「売春行為」を承諾するのは対照的だ。)

昨日の記事でこの映画の骨格をダンとラリーの対決と書いたけれど、もう少し引きでみるならば、非凡な能力を持った風来坊がふらりと町に現れて事件を起こしたり解決したりして、最後にはまたふらりと町を去って行くという、シェーン(goo映画)、用心棒(goo映画)、座頭市(goo映画)など時代劇や西部劇によくみられる物語構造が部分的にせよ借用されているということができるだろう。ナタリー・ポートマン演ずるアリスがこの非凡な風来坊の役割を果たしているのはいうまでもない。もちろんアリスはダンとの関係の中で傷つくもろい存在であって、その点では前出の時代劇・西部劇の主人公のようなスーパーマンとは違うのだが。しかし、映画の最後近くのところで、少し前までセックスを求めていたアリスが一転ダンに別れを告げるシーンではなにやら高いところから審判が下されているような印象を受けた。

クローサーところで、映画の中にアーティストを登場させるのは難しい。大抵は彼/彼女の作品を画面に登場させる必要があるから。『クローサー』の4人のキャラクターの一人はジュリア・ロバーツ演ずるアンナというフォトグラファーな訳だが、彼女のスタジオや個展の会場のシーンで画面に現れる作品の微妙さの塩梅は実に見事だ。その偽古典的ともいうべき作品群を見ると「そこそこ成功しているが実はどうってことないよくいるフォトグラファー」という設定がよく納得できる。

映画の中のアンナの行動はつねに受身である。ネカマに成りすましたダンの仕組んだ悪戯に引っかかったラリーはたまたま水族館にいたアンナをエロ・チャットの相手と思い込んで声を掛け、いきなり卑猥な言葉を投げかける。アンナは当惑はするのだが、拒絶はせず、その出会いがきっかけでラリーとつきあい始める。このシークェンスは解釈に困った。アンナは性的に開放された現代の女性像を顕現しているのか?それとも彼女は並外れて寛容なのか?

アンナはラリーと付き合いながら、個展のときからダンとも関係を持つようになる。やがてその二股状態のままダンと結婚する。やがて、ラリーにダンとの関係を告白し、離婚を求める。離婚を求めたのはダンの希望だったのではないだろうか?アンナとしては二股状態は全く構わないし、実は好ましい状態であったのかも知れない。ラリーと別居状態になった後、ラリーから離婚届けにサインする代わりにセックスを求められ、これに応じる。その事を知ったダンはアンナを激しくなじり、結局アンナはラリーのところに戻っていく。アンナはこのように求められるがまま2人の男の間を行き来する。アンナにとって男は自分の性欲を満たすための存在に過ぎないのかもしれない。

それにひきかえ、『クローサー』の中の男たちは一件単純なセクシュアリティを持っているように見えながら、そのセクシュアリティは社会的な権力欲と深く結びついている。

(またまた続き書きます。たぶん・・・)

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2005年5月23日

『クローサー』

クローサー品川プリンスシネマで映画『クローサー』(2004年、マイク・ニコルス監督)(日本公式サイト)(goo映画)を観てきた。ジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、クライブ・オーウェンという豪華キャストで話題の映画だ。

最初に結論をいってしまうと、この映画は非常に稀な傑作であると言っていいだろう。一般的には恋愛映画というジャンルに分類されることになると思うが、映画館でひと時の甘いロマンスに浸るといった類の映画ではない。『クローサー』のストーリーは要所要所に配置されたあり得ない偶然にドライブされて進んでいくので、そうした意味では寓話的といえるが、対照的に個々のシーンの描写においては辛口のリアリズムが貫徹されている。冒頭から最後まで心理的テンションに満ちており、何らのアクション・シーンがあるわけでも無いのに、冴えた台詞と演出によってとてもスリリングな映画になっている。スティーブン・ゴールドブラットによる微妙な被写界深度を駆使したシネマトグラフィーも巧みに観客をスクリーンに引き込む。

売れない作家のダン(ジュード・ロウ)と皮膚科医ラリー(クライブ・オーウェン)の男2人はそれぞれタイプは異なるものの、恋愛やセックスに関して非常に赤裸に描かれており、同じ男としては身につまされる場面がいくつもある。男のいやらしさ、情けなさ全開。実際女性と観に行ったらある意味怖い映画であり、映画館を出た後の会話でドギマギしてしまうかもしれない。ダンとラリーの「対決」がストーリー上の骨子か。

一方、フォトグラファーのアンナ(ジュリア・ロバーツ(*))とストリッパーのアリス(ナタリー・ポートマン)は現代的で自分のセクシュアリティに対して直視的で自覚的な女性として描かれてはいるが、リアリズムの度合いはやや低いか(まあおれは男性なので客観的に見れないのは否めないが)。表現は難しいけれど、この女2人はやや抽象化され物語の中で象徴的な役割を担っているように思える。映画の発端と締めくくりの鍵はアリスなんだけど。

(また明日にでもネタバレ含めてつづき書きます)


*) ツボヤキ日記の記事によると当初はケイト・ブランシェットの起用が予定されていたそうだ。彼女のファンなので個人的にはそっちの方を観てみたかったかも。特にジュード・ロウとの共演がみれていたかと思うと残念。おれは『ガタカ』 (goo映画)以来のジュード・ロウのファンでもあるんで。

2005年5月16日

チチョリーナさん

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今日気が付いたトリビア。

『エーゲ海に捧ぐ』(goo映画)でお馬さんごっこをしてたのはチチョリーナさんだったのか(参照:*)!正直、知りませんでした・・・

チチョリーナさんといえば、後に国会議員になったり、現代美術におけるスーパースター、ジェフ・クーンズ(参照)と結婚したり離婚したりして話題の多い人でした^^ でもおれの頭の中では『エーゲ海・・・』とはつながってなかったんだよね。もう一度観返してみたいんだけど、現在ソフトは発売されていない模様。

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2005年5月 4日

『真夜中の弥次さん喜多さん』(ネタバレあり)

yajikita昨日、宮藤官九郎監督の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』(公式サイト)を観て来た。

人気脚本家宮藤官九郎の初監督長編映画作品ということだ。ちなみに、宮藤の名前は以前から知っていたのだが、意識して関連作品を追いかけたことは無い。『GO』(goo映画)と『69 sixty nine』(goo映画)は観たことがあって、どちらの映画も自分的には高評価なんだが、宮藤が脚本を担当していたということはいまさらながら今回調べて初めて気がついた。『池袋ウェストゲートパーク』は原作シリーズを何篇か読んで結構ハマったので同名の伝説的傑作TVドラマ(やはり宮藤官九郎が脚本を担当)を観たいと前々から思っているのが未だ観ずじまいだ。なお、宮藤には俳優としての顔もあるが、出演作品は観たこと無い。

映画『真夜中の弥次さん喜多さん』は同名のしりあがり寿(公式サイト)の漫画を原作としている訳だが、この原作を含めて同氏の作品には特になじみは無い。しりあがりの画風は雑誌その他で昔から何度も見て知っているけれど。

さて、映画『真夜中の弥次さん喜多さん』だが、ともかくシュールな映画である。おれの乏しい映画体験の中でいうと、これ級にシュールな映画は『気違いピエロ』とか『去年、マリエンバードで』とか『書を捨てよ町へ出よう』くらいしか知らない(これ全部「ヌーベルバーグ系」ってことにしちゃっていいのかな?)。しかし決してスノッブでは無い(ただし「髭の花魁」とかしりあがり寿の漫画を知らないと十分に楽しめないネタがあることを友達に聞いた)ベタベタなジャパニーズ・スラップスティックなギャグが全編に散りばめられており、映画館はしばしば笑いの渦に飲み込まれる。『GO』とか『69 sixty nine』にもハチャメチャな疾走感があったが、あれは宮藤の脚本の持ち味だったのか、同氏が監督・脚本をつとめる本作はタガ外れまくり全開ベタ踏みで疾走しまくる。

お伊勢参りを思い立った弥次さん喜多さんの2人が江戸を出発し旅に出るという物語の発端は下敷きになっている『東海道中膝栗毛』と同じである。しかしこの映画の弥次さん喜多さんはゲイで恋人同士である。薬物依存症であり、借金まみれで、「江戸はペラペラ」「おれはリアルがわからない」とつぶやく喜多さんを見かねていた弥次さんはある日「お伊勢様にはリアルがある」というチラシ(しりあがり寿のイラスト入り!)を目にして二人で旅に出ることを思い立つ、という経緯は『東海道中膝栗毛』より大分深刻な話である。はるか遠隔地にあるとされる救済を求めての旅というのがこの映画の物語的骨格・・・かと思いきや、2人はいきなりバイクに跨って江戸を出発し、東名自動車道を飛ばしてたちまちお伊勢様も目前の場所まで到達してしまう。しかしスクーターに跨った「おかっぴき」に捕まり、「江戸時代なんだから歩け」と江戸に引き戻される。そして2人は性懲りも無く今度は電車に乗って出発するが、再び江戸に連れ戻され、ようやく徒歩で江戸を出発する・・・という部分で物語の骨格はバラバラに砕かれ、全てネタ世界であることを認識させられる。

さらに映画の半ばでは、弥次さんは実は禁断症状で錯乱した喜多さんによって途中で殺されていたのだが喜多さんは弥次さんと旅を続けているつもりだった、という一種の夢オチというか幻想オチ(中盤でオチというのもヘンだけど)が待ち構えている。

その後、映画館で『真夜中の弥次さん喜多さん』を観る喜多さん、賽の河原の弥次さん、森の中の不思議なバーで「死せる恋人のためのカクテル」を飲む喜多さん、喜多さんの夢としての弥次さん、眠った喜多さんと主体を持った夢としての弥次さん、自殺した弥次さんの妻お初などが目まぐるしく登場する。

あるシーンでは弥次さん喜多さんは現代の新宿にワープする。弥次さんは「あれがお伊勢様だ」と伊勢丹の看板を指差し、喜多さんは訝りながらもついて行く(そして通行人はエキストラじゃなく、皆2人の方に振り返るのだ!)。2人が伊勢丹の屋上に来ると「リアル」とは似ても似つかぬハリボテの鳥居や記念写真撮影用に顔のところが穴になったハリボテ人形などが並んでいる。「どうだお伊勢様は素晴らしいだろう」と得意げな弥次さんに喜多さんは「お前本物の弥次さんじゃ無いだろう!」と叫ぶ。ハリボテはばたばたと倒れる。

この映画の「王の宿」以降の部分は空中分解しそうに錐揉みしながら巧みにひとつの作品として飛翔し続ける。本作は「好き嫌いがわかれる」と言われるが、このあたり振り落とされずについて行けるかにかかっているだろう。上記のシーンとか、そもそも旅の発端とか、実は布に描かれた絵の富士山、その他映画中に散りばめられた諸々は、この映画の根底のテーマが「リアル」・・・あるいはバーチャルリアリティ化が極度に進行してリアル感を喪失した現代というある意味薬物中毒的時代・・・であることを示唆する。そういえば現代における「旅」というのはバーチャルリアリティ化を最も象徴するモチーフかもしれない。救済はお伊勢様なんかには無くて・・・というか伊勢丹の屋上が結局お伊勢様なんでしょう。そんなもん、てことでしょう。そしてダリが描いたかのような象に乗った弥次さん喜多さんが行進するラストシーンで、「愛」「許し」そして「笑い」による救済を提示して映画は終わる。

2005年5月 3日

ヒトラーの看護婦


'Hitler's nurse' breaks silence [BBC NEWS]

ドイツの新聞が伝えるところによると、戦時中のヒトラーの地下壕の生き残りが発見された。

Berliner Zeitung紙は「私はヒトラーの看護婦だった」と題し、第二次世界大戦の最後の日々に関するエルナ・フレーゲル(Erna Flegel、93歳)の談話を伝えている。

談話によるとフレーゲル婦人はヒトラーが自殺した後も地下壕に残り、ソ連軍が到着したときもそこにいたという。

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Berliner Zeitung紙が伝えるところによると、彼女は1945年に米国の諜報部員の取調べを受けたが、以後60年間この体験については沈黙していた。

しかし今、過去の体験について語ること決意し、「秘密を墓まで持って行きたくない」と新聞に語った。

生々しい体験談が紹介されている。

ヒトラーは疑心暗鬼に陥り、スパイが彼の青酸カプセルをニセの毒とすりかえたのではないかと疑っていた。

「誰かが自分を暗殺しようとしているのではないか」という強迫観念の状態を通り越すと「誰かが自分の自殺を妨害しようとしているのではないか」という驚くべき段階に到達するのだろうか。

他にも、フレーゲル婦人はヨーゼフ・ゲッペルス宣伝相の6人の子供の命を助けようとしたが、ゲッペルス夫人は容赦なく自らの子供たちに毒を飲ませたとか。

そういえば、この夏東京でオリバー・ヒルシュピーゲル監督の映画『ヒトラー ~最後の12日間~』(日本におけるオフィシャルサイト)(ツボヤキ日記)が公開される。「ヒトラーを人間的に描いた」ということで一部で物議をかもしている作品だ。この元看護婦もこの映画に刺激されて出てきたのかも。先日、トロント在住の映画好きのカナダ人の友人が傑作だと絶賛していたのだが、おれも観るのを楽しみにしている。