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ペトロ三木の『アタマのおかしいブログ』: 「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」を読んで思い出した、ウィリアム・サマセット・モームが『月と六ペンス』のはしがきとして1933年(!)に書いた文章から抜粋コピペ(行方昭夫による日本語訳):
チャールズ・ストリックランドのマルセイユでの経験を描くに当たって、ハリー・フランクの『世界放浪記』という面白い旅行記の数節を利用した。・・・略・・・元来、小説家というものは、すべてを知っていることなどあり得ないのだ。創作に必要な知識は、他人や書物から得るのである。自分の書くすべてを自分の頭で創作しようと心掛けるべきだというのは、ごく最近の考えである。愚かしい考えだ。過去の作家たちは、必要なものを相互に利用し合っていた。それにとどまらず、他人の書いた何節かを平気で丸写しする者さえ少なくなかった。これは、本を書くことに金銭が絡むようになった今では確かに許されぬことであるが、作家が他の作家の書物で見つけた出来事を利用したからといって、文句をつけるのはナンセンスだ。出来事を自分の作品で充分に生かすことができれば、自分のものにしたといえる。元来、事実を述べた書物は小説家が利用しても許される、いわば公の採石場である。小説家がホテルのバーや、クラブの喫煙室で耳にした出来事を創作に利用して構わないのと同じく、他人の作品に載っている出来事も利用して悪いわけはない。こういう事柄についての私の考えは、さらに先鋭的である。どの作家も、自分に役立てえるいかなることも他の作家から借用して差し支えない、と信じるのだ。これまで自分の戯曲の色々な場面が盗用されるのを何度も見てきたが、私は常に平然としていた。仲間の劇作家がそれほど私の作品を子細に検討したのなら、むしろ光栄ではないか。少し前、ある青年が「マルセイユ零落記」というエッセイを書いた。よい文章だった。ところが、このエッセイは、『月と六ペンス』のある章を、ほとんど丸写ししたものだと判明した。このエッセイを載せた新聞社は憂慮した。エッセイには、私がハリー・フランク氏の著書から借用した数節のみならず、昔のマルセイユのいかがわしい地区(残念ながら、経済事情により、この地区のかつての華やかで活気あふれる雰囲気は今では失われてしまった)について私自身の見聞に基づいて書いた箇所も載っていた。新聞社は版権侵害で訴えられるのを恐れたようだが、私は、訴える気はないと伝えた。さらに、エッセイを執筆した青年の文才を称えるように依頼したのである。
前近代~近代~現代の流れの中で考えると面白いと思う。

二泊三日で小旅行に行ってきた。
12日夜、渋谷シネアミューズのレイト・ショーで観た。
映画が始まってしばらくすると、変な匂いが漂ってきた。屁の匂いと正露丸の匂いだ。断続的にではあるがずっと漂っていた。ヴァージン・シネマズ六本木では『チャーリーとチョコーレート工場』上映時に「効果臭」として劇場内にチョコレートの匂いが漂うらしいが、『ブコウスキー』の場合は屁と正露丸の匂いですか、そうですか、なるほど・・・て、そんな訳ねーだろ。なんだかとんでもない客が近くにいたようだ。目撃証言によると、そいつは通路越しに脚をなげだした酷い格好だったらしい。ブコウスキー気取りかよ、バーカ。
この映画を観るにあたって、多少予習しておこうということで、長編小説『パルプ』を読んだ。これはなかなか楽しめた。次に短編集『ありきたりの狂気の物語』を読んだ。最初のあたり、特に『狂った生き物』は面白かったのだが、読み進むにつれ、どの短編も泥酔、ゲロ、暴力、セックス(というよりセクハラ)の繰り返しで、次第にうんざりしてきた。おれは途中でその本を投げ出してしまった。
『ブコウスキー:オールドパンク』は作家ブコウスキーと交流のあった、彼を愛した人々が寄ってたかって彼を聖人に祭り上げようとするような映画だった。おれはちょっと違和感を感じながら観た。
ブコウスキー本人はまあ純粋な人物だったのかも知れないが、ブコウスキー的な人々というかブコウスキーにはまるタイプの人々には正直違和感を覚えるのだ。嫌悪感とさえ言ってもいいかもしれない。
典型的なのはアングロサクソン系のアウトサイダー意識の強い若者たちだ。彼らは権威に反発するふりをしながら、権威を構成するシステムから一歩も外に出ていない。自由人を気取って世界各地を放浪しながら、アングロサクソンの政治的・経済的・文化的ヘゲモニーの繭の中でヌクヌクとしている。英語が世界で最も通用する言語であることのメリットを最大限享受している訳だし。彼らは実のところたいていの場合は独善的で排他的で人種差別主義者だ。さらに最悪なことに、たいていOASISのファンだ。まったくロクでもない。
・・・ああ、屁と正露丸にはムカついたよ・・・
この前の土曜日の朝、子供の幼稚園の運動会に行ってきた。
父兄の中に、某男子プロテニスプレイヤーがいた。今は選手としての第一線からは引いているのはずなので、「元~」と言った方がいいかもしれないけど、テレビでの露出もかなり高く、誰でも知っている人だ。実物は恐ろしくカッコ良かった。端正な顔、188cmの身長、そして鍛え抜かれた引き締まった肉体。ママたちの中には「きゃ~、○○さま~!」な勢いでカメラを手に走りまわっている人たちもいた。
ちょっと話は脇にそれるが、公式サイトによるとこのテニスプレーヤーの体重は85kg。おれは62kg。脂肪量はおそらく大差無いので、彼の体にはおれより20kgくらい余計に筋肉が付いていると思われる。おれの筋肉量は8月に体組成計に乗った時の推定値で52kgなので、彼の筋肉量はおそらく72kg程度か。身長は大差無いが、筋肉量は大違いである。クルマに例えれば、このテニスプレーヤーはメルセデス・ベンツS500でおれはS350かOTL・・・
このプロテニスプレイヤーが燦然と孤高の輝きを発する一方、他のほとんどのパパたちはいかにも精彩を欠いた感じだった。エネルギーが感じられない。まるで去勢された家畜の群れのようだ。ママたちは元気で綺麗で艶のある女性が多いのだが、なにやら対照的だった。
おれがふと思い出したのはこのブログ記事だった。
そもそも、フェリスや聖心のような恋愛エリート養成校を卒業して、一流企業の受付のような恋愛専門職でプロとしてのキャリアを歩んで来たような人たちと、・・・(略)。このような恋愛エリート女性たちは親の全面的支援を受けているのが普通です。
親の願いも唯一つで「経済力があって、できればハンサムな男と結婚して孫の顔を見させてくれ」と言うことです。
親はそのためにはどんな支援も惜しみません。
英会話を習いたいと言えばすぐにお金を出し、ブランド物のバッグがほしいといえばすぐに買ってあげます。
言ってみれば、いい男をゲットすると言う業務のための強力なバックオフィスを持っているようなものです。彼女たちは大学で効果的な合コン戦略とか化粧法とか言った基本的なことから、セックスの出し惜しみ方や与え方と言った高度なことまで徹底的に学習しています。
うぶなエリート坊ちゃんはこのようなプロに掛かればいちころです。
簡単に「一生奴隷or別れる時は財産半分」と言うとんでもない契約書にサインしてしまうのです。
この幼稚園は(フェリスでも聖心でもないけど)一流企業に一般職女子社員を大量に供給している某有名私立女子大の付属で、ママたちの中にはこの大学のOGもかなり多いと思われる。目の前にいたのは「恋愛エリート」と彼女たちにゲットされた「うぶなエリート坊ちゃん」の成れの果ての大量のスペシメンだったのかもしれない。
仕事のところを「家事」にして出した。
うち家政婦もいるし、あまり家事してないんだが・・・
「遊民」て選択肢は無かったからな。
