『ブラック・レイン』、松田優作、シンディ・シャーマン
リドリー・スコットの映画人としてのキャリアは特異である。彼は1979年の『エイリアン』(goo映画)、1982年の『ブレードランナー』(goo映画)という2つの不朽の名作をたて続けに世に送り出し、映画監督としての名声を一旦は確立した後、長い低迷時代に入ってしまい、微妙な作品を撮り続けた。しかし2000年の『ハンニバル』(goo映画)でいきなり復活(*)。同年の『グラディエーター』(goo映画)はアカデミー作品賞に輝いた。2001年の『ブラックホーク・ダウン』(goo映画)も冴えた傑作である(これがリドリー・スコットのこれまでの最高傑作かもしれないとさえ個人的には思っている)。そして今現在は『キングダム・オブ・ヘブン』(goo映画)が大ヒット上映中(これは近日中に観に行きたいと思っている)。
内田樹の研究室: 松田優作と『ひよこどん』
この記事の前半で取り上げられてる『ブラック・レイン』(goo映画)は変な言い方だけどリドリー・スコットの「低迷時代の代表作」である。日本が舞台だし松田優作や高倉健が出演してるから日本では話題になったけれど、よくある「奇妙な果実」系映画で終わっていて駄作である。しかしここで紹介されている松田優作の演技に対する加藤典洋の解釈はおもしろいと思った。まあリドリー・スコットの「公案」に応えてのことだったのかどうかは謎だが。
定型的なふるまいを微妙に過剰にすることによって、その定型を「ナチュラルなもの」として看過している人々の「紋切り型性」=イデオロギー的な被制性を逆照射してみせること。
これはおもしろい視点だ。これを意識的に武器として使いこなして成功した代表例は(映画から離れるが)シンディ・シャーマンの『アンタイトルド・フィルム・スチルズ』(MOMAのページ)だろう。この作品はどこかで見たような映画のワンシーンをシンディ・シャーマン自身が演じた「ニセ・スチル写真」の連作である。この作品の中でシンディ・シャーマンは映画に見られる紋切り型の女性像をやや過剰に自演することによってまさに女性像の「イデオロギー的な被制性」を「逆照射」することに成功した。
仮に、松田優作が『ブラック・レイン』において、シンディ・シャーマンがとったのと同等の戦法によって、何かを表現しようとしたとすると、それはなんだったのだろうか?ハリウッド映画が潜在的(いや顕在的?)に持つ異文化に対する傲慢さかな?だとすると『ブラック・レイン』はそうしたメタ・レベルの批評性が仕組まれた、『エレファント・マン』(goo映画)あたりと並ぶ傑作ということになるけど、残念ながら当時のリドリー・スコットにそんな意図は無く、松田優作のゲリラ活動に終わった(で不発)というのがおれのbet。
*)というのは一般的な世の中の評価に基づいて。実はこの映画、当時相当な話題作であり、しかも好きな監督の作品であるのも関わらず、おれは観てないのだ。なぜかというと、おれはグロがだめなんで食人鬼の話なんか怖くて観れないんですよ^^;; まわりのひとに聞くと、そんなでも無いって言うんで、そのうちDVDで観てみようと思ってます。
コメント
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投稿者: Nicolas Trumen | 2005年09月03日 07:41