昨日、宮藤官九郎監督の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』(公式サイト)を観て来た。
人気脚本家宮藤官九郎の初監督長編映画作品ということだ。ちなみに、宮藤の名前は以前から知っていたのだが、意識して関連作品を追いかけたことは無い。『GO』(goo映画)と『69 sixty nine』(goo映画)は観たことがあって、どちらの映画も自分的には高評価なんだが、宮藤が脚本を担当していたということはいまさらながら今回調べて初めて気がついた。『池袋ウェストゲートパーク』は原作シリーズを何篇か読んで結構ハマったので同名の伝説的傑作TVドラマ(やはり宮藤官九郎が脚本を担当)を観たいと前々から思っているのが未だ観ずじまいだ。なお、宮藤には俳優としての顔もあるが、出演作品は観たこと無い。
映画『真夜中の弥次さん喜多さん』は同名のしりあがり寿(公式サイト)の漫画を原作としている訳だが、この原作を含めて同氏の作品には特になじみは無い。しりあがりの画風は雑誌その他で昔から何度も見て知っているけれど。
さて、映画『真夜中の弥次さん喜多さん』だが、ともかくシュールな映画である。おれの乏しい映画体験の中でいうと、これ級にシュールな映画は『気違いピエロ』とか『去年、マリエンバードで』とか『書を捨てよ町へ出よう』くらいしか知らない(これ全部「ヌーベルバーグ系」ってことにしちゃっていいのかな?)。しかし決してスノッブでは無い(ただし「髭の花魁」とかしりあがり寿の漫画を知らないと十分に楽しめないネタがあることを友達に聞いた)ベタベタなジャパニーズ・スラップスティックなギャグが全編に散りばめられており、映画館はしばしば笑いの渦に飲み込まれる。『GO』とか『69 sixty nine』にもハチャメチャな疾走感があったが、あれは宮藤の脚本の持ち味だったのか、同氏が監督・脚本をつとめる本作はタガ外れまくり全開ベタ踏みで疾走しまくる。
お伊勢参りを思い立った弥次さん喜多さんの2人が江戸を出発し旅に出るという物語の発端は下敷きになっている『東海道中膝栗毛』と同じである。しかしこの映画の弥次さん喜多さんはゲイで恋人同士である。薬物依存症であり、借金まみれで、「江戸はペラペラ」「おれはリアルがわからない」とつぶやく喜多さんを見かねていた弥次さんはある日「お伊勢様にはリアルがある」というチラシ(しりあがり寿のイラスト入り!)を目にして二人で旅に出ることを思い立つ、という経緯は『東海道中膝栗毛』より大分深刻な話である。はるか遠隔地にあるとされる救済を求めての旅というのがこの映画の物語的骨格・・・かと思いきや、2人はいきなりバイクに跨って江戸を出発し、東名自動車道を飛ばしてたちまちお伊勢様も目前の場所まで到達してしまう。しかしスクーターに跨った「おかっぴき」に捕まり、「江戸時代なんだから歩け」と江戸に引き戻される。そして2人は性懲りも無く今度は電車に乗って出発するが、再び江戸に連れ戻され、ようやく徒歩で江戸を出発する・・・という部分で物語の骨格はバラバラに砕かれ、全てネタ世界であることを認識させられる。
さらに映画の半ばでは、弥次さんは実は禁断症状で錯乱した喜多さんによって途中で殺されていたのだが喜多さんは弥次さんと旅を続けているつもりだった、という一種の夢オチというか幻想オチ(中盤でオチというのもヘンだけど)が待ち構えている。
その後、映画館で『真夜中の弥次さん喜多さん』を観る喜多さん、賽の河原の弥次さん、森の中の不思議なバーで「死せる恋人のためのカクテル」を飲む喜多さん、喜多さんの夢としての弥次さん、眠った喜多さんと主体を持った夢としての弥次さん、自殺した弥次さんの妻お初などが目まぐるしく登場する。
あるシーンでは弥次さん喜多さんは現代の新宿にワープする。弥次さんは「あれがお伊勢様だ」と伊勢丹の看板を指差し、喜多さんは訝りながらもついて行く(そして通行人はエキストラじゃなく、皆2人の方に振り返るのだ!)。2人が伊勢丹の屋上に来ると「リアル」とは似ても似つかぬハリボテの鳥居や記念写真撮影用に顔のところが穴になったハリボテ人形などが並んでいる。「どうだお伊勢様は素晴らしいだろう」と得意げな弥次さんに喜多さんは「お前本物の弥次さんじゃ無いだろう!」と叫ぶ。ハリボテはばたばたと倒れる。
この映画の「王の宿」以降の部分は空中分解しそうに錐揉みしながら巧みにひとつの作品として飛翔し続ける。本作は「好き嫌いがわかれる」と言われるが、このあたり振り落とされずについて行けるかにかかっているだろう。上記のシーンとか、そもそも旅の発端とか、実は布に描かれた絵の富士山、その他映画中に散りばめられた諸々は、この映画の根底のテーマが「リアル」・・・あるいはバーチャルリアリティ化が極度に進行してリアル感を喪失した現代というある意味薬物中毒的時代・・・であることを示唆する。そういえば現代における「旅」というのはバーチャルリアリティ化を最も象徴するモチーフかもしれない。救済はお伊勢様なんかには無くて・・・というか伊勢丹の屋上が結局お伊勢様なんでしょう。そんなもん、てことでしょう。そしてダリが描いたかのような象に乗った弥次さん喜多さんが行進するラストシーンで、「愛」「許し」そして「笑い」による救済を提示して映画は終わる。